2026年5月号 「どうしてだろう」
2026年05月01日
これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。マルコ12:11
今月の聖句は、イエスが旧約聖書の引用の一節です。「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの前には不思議なことだ。」(詩篇118:22-23)この引用の前に、イエスは一つの譬を語っていました。ぶどう園の主人(父なる神)が農夫たち(ユダヤ教の指導者たち)にそれを貸して旅に出た。収穫の時期になって収穫の一部を得るため、しもべたち(旧約聖書の預言者たち)を順々に遣わすが、農夫たちは彼らを辱め、乱暴し、殺した。そこで最終的に主人は愛する一人息子(イエス)を遣わしたが、農夫たちは彼も殺して、相続財産を奪おうとした(マルコ12:1-9)。イエスはこの譬の説明として上記の詩篇を引用したのです。「捨てた石」・「要の石」とはイエスのことです。つまり、人々が十字架で「捨てた」イエスが、私たちを支える「要の石」となる。この詩篇は、イエスの十字架による神の救いの御業の不思議を表しています。
神の不思議な御業は自然にも多くあります。5月はめぐみ幼稚園の園庭でも美しい時期です。木々が青々と生い茂り、野の花が咲き誇り、藤棚が満開となって甘く爽やかな香りを漂わせ、その周りを黒いマルハナバチたちが空中遊泳します。その他にも様々な植物や生き物との出会いもあります。それらの中には、園児たちが初めて見るもの、触れるもの、におうものもあるかもしれません。神は自然の不思議をも通して私たちへの愛を表してくださいます。子どもたちと共に自然に溢れている神の不思議な御業を探求し、神に愛されていることを実感していきたいと願っています。
川井 信雄
風薫る五月。近頃は気候変動の影響でそのような日も減りつつありますが、それでも晴れやかな空に新緑がざわめき、心地よい風を感じる日があるはずです。以前、園庭で遊んでいた年中さんが、顔に当たる風を感じながら「これ、どこから来るんだ?」「どこに行くの?」と呟いていました。大人が「そうだよね、見えないもんね」と答えていると、近くにいた年長さんが「見えなくても、木が動いたり何かが飛んだりすれば、風がいるってわかるよ」と教えてくれました。子どもたちはしっかりと「目に見えないもの」に心を寄せ、それを的確な言葉で表している。その姿に感動しました。この風と同じように、子どもたちとの関わりの中には、確かにそこにあるのに見えにくいものや、意外な形で現れるものが多いと感じます。
例えば、幼稚園に慣れ始めた5月・6月。楽しさが確かなものになり、活発になった子どもたちからは「〇〇きらーい!」「先生、きらーい!」「いやだ!」といった言葉が聞こえてくることがあります。しかし、このざわめきの向こう側には、「先生は私のことが好きだから大丈夫」「嫌だと言っても受け止めてくれるよね?」という、安心感と信頼の確認が隠れています。
また、箱の中でガムテープにくっついて死んでいるダンゴムシに出会うこともあります。その光景の向こうには、ダンゴムシのためにガムテープを駆使して「遊び場」を作ってあげようと奮闘した、純粋な思いが見えてきます。翌日、罠のようになってしまった箱を見て心を痛め、どうすることもできずにそっと置いた…そんな心の葛藤までもが想像できるのです。
「よくない言葉よ!」「生き物を大切に!」と、目の前の事象だけに目を向けがちな私たち大人ですが、さわやかな風が吹くこの季節。風を感じるたびに、子どもたちの心の奥にある「見えない思い」を覗いてみる。そんなきっかけにしてみてはいかがでしょうか。
大谷 真理子